SSブログ

日本の朝鮮統治時代で知っておくべきことは何か1 [民主党]

菅直人首相は8月10日に閣議決定をし、日韓併合100年にあたって首相談話を発表した。

本年は、日韓関係にとって大きな節目の年です。ちょうど100年前の8月、日韓併合条約が締結され、以降36年に及ぶ植民地支配がはじまりました。

三・一独立運動などの激しい抵抗にも示されたとおり、政治的、軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。

・・・・・この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫びの気持を表明いたします。(以下省略)

昭和40年日韓基本条約では、補償問題は『完全かつ最終的』に解決済みというのが日本政府の一貫した立場。 

内閣総理大臣の談話ということは、菅直人個人のお詫び表明ではなく、国民を代表して談話を表明することになる。当然以降の政府方針を拘束してしまうだろう。

しかし、国民は日韓関係について何ひとつ議論したことはなく、このこと(談話)に関して世論調査もしていない。

さらに党内で何の議論もないまま、首相官邸内の密室で判断し、一部の人間が原稿を作成し、発表した。

このような理由から、如何なる理由があろうとも、談話の妥当性が確保されていないと思うが如何だろうか。

☆菅直人談話の中身は歴史的事実か

談話発表前に韓国側の要望を入れ、平成7年村山談話の時の「痛切な反省」の主語として、今回は、併合が韓国人の「意に反して行われた」との言及がなされ、韓国側の歴史解釈に基づいている。また文化財返還も韓国の要望だという。

韓国側の歴史解釈には、多くの反証や反論がある。以下、問題点を絞って明らかにしていきたい。

少なくとも我々日本国民としては、先達がどのような事を成し、どのような問題を起こしたのかを、知っておくべきだと思う。

その結果、過ちを犯したのなら真摯に謝罪をし、根拠のない言い掛かりだとしたら、これを真っ向から撥ね退けねばならない。

何故なら、今回の談話発表によって問題がより大きくなっていくだろうからである。つまり菅談話の結果、『韓国だけではない』として中国や北朝鮮、東南アジアなどの謝罪要求に火を付けたことになる。

早くも中国では、菅談話後の中国紙アンケートで98%が『日本は中国人民に対し、侵略戦争問題について正式に謝罪し、おわびすべきだ』と答えた(産経12日)。

☆日韓併合以前の朝鮮はどういう状況だったか

韓国では、日本の植民地支配がなかったら、ずっと独立して繁栄した国家を築いていたという。

日韓併合前後 朝鮮半島写真館へ

しかし、事実は全く逆である。中国皇帝の冊封を受けることで政権の権力基盤と、正統性を保ってきた。

冊封とは中華の華夷秩序に基づく支配・隷属関係で、宗主国に進んで隷属することが美徳とされてきた。

要するに李氏朝鮮は清の属国であり、小国の朝鮮が大国の清に仕える事大主義によって、国内の安定を保ってきた。

しかもこの体制は、唐以来の1000年以上も継続しており、朝鮮半島は統一新羅以降、中華王朝の1000年属国として甘んじてきたのである。

また朝鮮は中国に対する進貢国として、金銀牛馬の特産品から貢女、宦官の進貢物品の明細までを細かく規定し、中国へ膨大な贈り物を続けてきた。

黄文雄氏の指摘によると

〇 中華朝廷が朝鮮の国王、王妃、太子の廃立にまで権限を持ち、天朝の勅使が来朝するたびに、朝鮮国王は城外まで出迎え、慕華館で太子が酌の礼をするというのが慣例だった。

〇 反対に朝鮮の朝貢使節は、北京では諸侯の礼さえ得られず、粗末な待遇を受け、百官と同じ宿に宿泊させられていた。

〇 朝鮮歴代王朝は、半島内のすべての出来事をいちいち詳細に書き出し、倭情(日本情勢)まで中華朝廷に報告する義務を負っていた。

〇 半島の国王が皇帝の逆鱗に触れると厳しく処罰され、貨幣鋳造権まで停止させられた。さらに、半島の反乱平定の折には、北京朝廷から金銀まで下賜されていた。

〇 清の朝廷から軍隊召集や朝使に対する賄賂禁止の詔書を下されていた。

〇 朝鮮と外国との外交は、天朝朝廷からいちいち制限され、報告を同時に義務付けられていた。

〇 朝鮮の国王は天朝の臣下とみなされ、中華皇帝によって任命された。

〇 朝貢は中華帝国の礼部(文部省)によって管轄され、指揮権は北洋大臣や直隷大臣、あるいは彼らから任命された代理人にあり、朝鮮国王の地位は主権国家の元首と比べるまでもなく低いものだった。

〇 天朝の朝賀の席では千官が赤色の礼服だったのに対し、朝鮮の使臣だけが黒の丸首の衣で、琉球の使臣は駕籠(かご)に乗って入るが、朝鮮の使臣だけは禁止されていたと尹昕(いんきん)の『渓陰漫筆』に書かれている。琉球以下ではないかと。

〇 『朝鮮』の国号も自分で決められたものではなかった。明の皇帝に下賜され、都も『韓城』ではなく『漢城』と命名された。

黄文雄氏は、『このような独立国家が世にあっただろうか』と指摘している。

☆李氏朝鮮の社会状況 

日清戦争前、朝鮮の管理、指導を任されていた李鴻章の側近、袁世凱に言わせると、当時「朝鮮は万国の最貧国」であった。

人々は五戸を一統とする五家作統法(五戸が相互を監視)によって編成され、身分証である号牌(ごうはい)の保持を義務づけられていた。

官吏の腐敗によって農民の課税は重くなり、やがて離農して流民となることを余儀なくされた零細農民は、国境を越えて北方に移動したり、中には火賊(盗賊)になるものもいた。

各地で農民の反乱が起こり、疫病が蔓延するなど、社会不安が増していく状況だった。

このような状況を考える時、独立と繁栄という言葉は、中華皇帝の冊封を受けていた時代には、とても考えられないのである。

*********************************************

引用、参照文献

黄文雄『中国・韓国が死んでも教えない近現代史』 徳間文庫

武田幸男『アジア論Ⅳ 朝鮮の歴史』 放送大学教育振興会

以降の予定

☆朝鮮が外国を侵略したことはないって?

☆強制連行について

☆従軍慰安婦とは朝鮮の歴史そのもの


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0